二宮金次郎の二宮家の復興と尊徳仕法による農村復興

1、二宮金次郎の二宮家の復興

1)誕生

天明7年(1787) 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)で二宮利右衛門と妻よしの長男として金次郎は誕生しました。利右衛門の家は村でも中くらいの地主で、2町3反(約2.3ヘクタール)の田畑を所有していました。祖父の銀右衛門は田畑の仕事一筋に働き、一代で財産を築き上げました。父利右衛門は養子でした。

2)二宮家の没落

寛政3年(1791) 酒匂川が氾濫して、二宮家の田畑は荒地となってしまう。(金次郎5歳の頃)父利右衛門は人がよく、村の人達に米、麦、お金まで都合していましたが、返済されないものが多く、祖父が残してくれていた二宮家の財産は減少してしまっていました。 
寛政10年(1798) 父が病に倒れる。父に代わって土手の改修工事の仕事に出た(金次郎12歳の頃)が、まだ大人と同じ仕事ができないため、草鞋を作って普請場の人達に使ってもらい喜ばれる。二宮家の生活は苦しい状態が続いており、田畑の一部を売って父の治療費あてたり、口減らしのために弟を近くの寺に預けることまでしなければなりませんでした。金次郎は子守りをしたり草鞋を売ったりして家計を助けました。
寛政12年(1800) (9月)父利右衛門が48歳で亡くなる。残されたのは、母と三兄弟でした。
享和2年(1802) 母が病気で亡くなる。酒匂川が再び氾濫し、二宮家の田畑は荒地となってしまう。長男の金次郎は伯父の万兵衛の家に、次男友吉と三男富次郎は母の実家、川久保家に預けられる。金次郎は生まれ育った家を売って借金の一部を返しました。自分の田畑も家も失いました。

3)金次郎の勉学

金次郎は7歳の頃から、父利右衛門から読み書きの手ほどきを受けていました。
父は農民の子も学問を積んで、武士にあなどられず、ものが言えるようになりなさいと諭していました。
伯父の万兵衛は百姓に学問などは不要と考えており、金次郎が行灯を使用して書物を読むのは油代がもったいないと言いました。金次郎は伯父の言葉に従い行灯の使用を止めました。そうして、村の知り合いから一掴の「菜種」を借り、仙了川の土手沿いの荒地に蒔き、七升(約13リットル)の菜種を収穫し、それを油屋に持って行き、菜種油と交換してもらいましたが、万兵衛さんには読書することは認めてもらえませんでした。金次郎の勉強は干し草や薪を取りに山に行く往復の道でなされました。この姿が負薪読書像となって、全国の小学校に設置されたのです。

*薪を背負って歩きながら本を読む金次郎の姿が初めて登場したのは、明治24年(1891)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』の挿絵だった。金次郎が山の行き帰りに読んでいたのは、『論語』や『大学』だった。とにかく本を  読む。意味がわからなくても繰り返して読み、自分で考えているうちに意味が理解できるようになるというやり方でした。


4)二宮家の復興

金次郎は万兵衛の家で世話になりながら、洪水により沼地に化したところを村の中に見つけ、沼から水を汲み出し、底をならし、こじんまりした田圃にし、いつも農民が捨てている余った苗を拾ってきて植え、夏中、怠らず世話をし、秋には二俵(一俵ともいわれている)もの米を収穫しました。
 文化元年(1804) 翌文化元年(1804)の二月に万兵衛の家を出て、長い間住む人の無かった両親の家に戻りました。栢山村の名主のひとり、岡部伊助の家に奉公しながら、荒地に作物をつくり、自分の田畑を耕すことにしました。18歳の時でした。この家を奉公先に選んだのは、伊助さんも学問好きで、小田原の町から学者を招いて、教えを受けていたからで、座敷で勉強が始まると、金次郎は庭掃除の手を止めて、障子超しに聞こえてくる声で勉強しました。これを知った伊助さんが夜暇な時に手習いをみてくれることになりました。この年、金次郎は奉公の合間に育てた稲から五俵にのぼる米を収穫しました。次の年には、奉公先を、同じ村の名主で親戚にあたる二宮七左衛門の家に移し、二十俵の米を収穫する一方、酒匂川の土手の普請場で働いたり、日雇い仕事に精を出しました。こうして蓄えたお金を七左衛門に差し出し、困っ人に分けてやるようお願いし、預けました。(後の推譲の精神)何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を所有するようになり、近所の人々すべてから、模範的な倹約家、勤勉家として仰がれる人物になりました。なにごとも自力で克服し、他人が自力で克服する手助けは、常にいといませんでした。
 文化三年(1806) 金次郎は20歳のたくましい、身長六尺(約182センチメートル)の若者になり、生まれた家のあったあたりに小屋掛けの家を建てました。働いて得たお金で、この年はじめて、田圃の一部一反(約10アール)を買い戻しました。(二宮家の復興)
24歳になって、一町四反(約1.4ヘクタール)の田畑を所有するようになり、小作の人達に農作業をまかせ、収穫を分け合うことにしました。その後も田畑を買い戻すことを繰り返し村でも五本の指に数えられる地主となりました。

5)服部家の中間となり、服部家の経済再建に貢献する

文化九年(1812) 服部家の中間となり子供の教育係になり、一緒に藩校の送り迎えをしながら、地理や算術の本を見せてもらったり、講義を窓の下で聞かせてもらいました。服部家は収入以上の生活をしていた(分度を超えた生活)ため、借金が雪だるま式に大きくなっていました。無駄をなくすことによって赤字を小さくすることを提唱し、薪や灯りの油代等を節約するよう指導しました。その結果服部家の財政は改善され、感謝されました。

6)分度による服部家の復興(分度:収入に見合った支出の枠を定め、その枠を堅く守ること)

服部家の借金ががかさみ、その解決を金次郎に頼みにきました。金次郎は分度を基本方針とし、節約生活をすすめましたが、十郎兵衛が江戸屋敷詰めとなり、経費がかさみ、借金は逆に増えてしまいました。金次郎は潘から利息の低い金を借り受け、五常講の仕組みをひろげて、お金を増やすことを考えました。借りたお金で利息の高い借金を返し、残りの金を五常講の運用に充て、まる四年で服部家を立ち直らせました。

*「五常講」(信用組合の元祖)
金次郎は五常の教えに従った仕組みを作り、お金を都合してやりました。五常の教えとは、『論語』の元になっている人の道の決まりで、ひっくるめて『徳』といいます。仁・義・礼・智・信のことです。

仁;余裕のある者が、困っている人に救いの手を差し伸べる心=お金を貸す側
義;借りた者が正しく返すこと
礼;借りた者が、お金を返し終えた後、お礼金を差し出すこと
智;借りたお金をきちんと返せるよう、工夫と努力するすること
信;真心、約束をきちんとまもること

金次郎はこの「五常」を守るという人に、お金を都合してやり、借りた人達は「五常講」という仕組を作って、もし返せない人が出たら皆の責任で返すことにした。

文化十二年(1815) 春、金次郎は服部家の中間を足かけ四年でやめ、栢山の家に帰る。
文化十四年(1817) 中島キノと結婚。このときの所有している田畑は三町八反(約3.8ヘクタール)になっていた。31歳。金次郎は村で二番目の大地主になっていました。

2、二宮尊徳の農村復興

1)年貢米を測る枡の統一

文政二年(1819) 最初の妻キノから離婚される。
文政三年(1820) 服部家の奥女中、岡田波子と結婚。枡の統一の提案受け入れられる。小田原藩主忠真(ただざね)が農民の声を聞き、改善されることはないかと服部十郎兵衛に尋ねられたことを聞いた金次郎は、「年貢米を納める際、幾通りもの枡(ます)が使われていて、不都合があります。ぜひ統一して頂きたい」と話し不都合な点を説明しました。十郎兵衛が藩主忠真にこれを伝えると、「金次郎の言い分、もっともである。直ちにその枡を作らせよ」と採用されました。これによって余分に納めさせられることもなくなり農民は助かりました。

2)下野(栃木県)の西南部の桜町領の復興を引き受ける

藩主忠真は十郎兵衛に「金次郎を潘の侍にとりたてたい」と相談しましたが、「農民を侍にしても藩士は反感をもって従わないでしょう」と答えた。「だが金次郎の働きが実を結べば、藩士たちが認めるだろう」ということで、桜町領の立て直しを命じることにしました。三年もの長い間、藩主は金次郎に村の復興を頼み続けたため、金次郎はついに藩主の懇望を受け入れました。
文政四年(1821) 8月に金次郎は行動を開始しました。桜町の三つの村をまわって人々の暮らしぶりを調べることから始めました。人の住まない家が朽ち果てており、人々の気持も荒れはてていました。「こうなったのは、年貢を搾り取り過ぎたからで、いくら働いても農民は食うや食わずで何の楽しみもない」と農民は金次郎に訴えました。「だが、農民が望みを持って鍬をふるえるようになれば、桜町は必ず立ち直る。十年あれば、必ず甦る。」と金次郎は調査を終えて栢山村に帰りました。

金次郎が藩主に提出した報告は、きわめて悲観的でした。ただ、全然見込みがないわけでもありませんでした。「仁術さえ施せば、この貧しい人々に平和で豊かな暮らしを取り戻すことができます」。「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。まことに救済する秘訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。かような援助は、貪欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、衰貧を救うには衰貧の力をもってし、小を積んで大をなし、人々に独立、自営の精神を奮い起こさせて再興させ、加えるに仁政をもって援助づれば、資金なくして廃村を興すことができる。」と報告しました。

文政五年(1822) 桜町領の建て直しを引受け、その準備に入りました。この頃から尊徳(たかのり)と名乗りました。徳は人の真心、それを尊ぶという意味の名前と言われています。金次郎の身分は家臣に嫉まれないよう、「名主役格」という低いものとされました。
文政六年(1823) 金次郎は栢山の家も土地も売り払い、一家をあげて桜町に移りました。武士の身分となる。

3)桜町領で行ったこと

桜町に来て、まず領内の村の家々を一軒ずつ訪ねて、暮らしぶりをつぶさに聞いて、調べることでした。「回村(かいそん)」です。家族数、田畑の広さ、収穫量、食べ物、病人の有無、困っていることなど徹底的に調査しました。朝から晩まで歩き回りました。「これから十年、二反の土地は一反とみて、年貢を半分納めればよいとの約束をもらっている。余分の米は皆の収入になる。」と話しました。次にしたのは、真面目に働く農民の表彰です。農民の投票で選ばせ、褒美は農具や米で、やる気を起させました。しかし、一部の名主やそのとりまきの農民たちの抵抗を受け、計画はうまく進まず、三年目には代官までが計画の達成は無理だと言い出し、苦境にたちました。文政十二年(1829)金次郎は江戸の屋敷に行くと言ってひと月近く帰って来ませんでした。藩主忠真が金次郎の行方を探させました。金次郎は成田の新勝寺に入って二十一日の断食修行をはじめ、桜町の立て直しが叶うようお不動様に祈っていました。修行を終えてお堂を出た金次郎を横山周平(藩主の指示で金次郎を探していた)や村人が迎えました。こうして村に帰ってからは立て直しの計画がうまくいくようになりました。

4)宇津家の分度を確立

尊徳は人民の永続の道を計り、昔の四千石の村をその地に相当の租税二千石の年貢をもって定額として、宇津家の分度を確立しました。
天保二年(1831) 藩主忠真は金次郎や村の代表を結城(現在の茨城県結城市)に招いてねぎらい、金次郎に、「そなたの方法は、論語にある『以徳報徳』である。徳という、人の真心をもって、それを実らせたのだ。」と褒めました。その後、“報徳”という言葉は、金次郎の考え方や行いを表すものとなり、「報徳社」や「報徳学園」もその精神を受け継いでいるのです。
経営に苦心し、自ら得たところの開拓法を行い、また無利息貸付法を奨励すると同時に、報徳日課積立金を行わせ、おおいに徳化をしました。

5)その他の村々の復興

*金次郎が領主に要求したことは、領民に仁の政治を行えということである。だから金次郎は農村復興の話を引き受けるとき、まず先だって藩主に『仁政の必要 性』をじっくり説得し、仁政を行わない藩主には、農村復興の協力をしなかった。 この金次郎の仁政への姿勢には、古代中国の孔子の生き方に似ているところがある。

桜町の隣村、青木村(現在の茨城県桜川市真壁町大和)から名主や村人たちが村の立て直しを願い出のため金次郎のもとに来て引き受けてくれるまではてこでも動かないという状態でした。金次郎は青木村を調査し、家を直し、桜川の土手を築き直し、堰を作り直すことにより村の立て直しの手始めとしました。数年に及ぶ不断の努力と倹約、とくに「仁術」によって、荒廃地はほぼ解消され、なんとか生産力が回復しはじめました。尊徳には、いかなる地域でも、その復興は、ただ土地の肥沃の回復を意味するだけではありません。「欠乏に備えて十年分の備蓄」(推譲)が必要とみなしました。しかし、この備蓄がととのう前に飢饉が襲ったのです。

6)天保7年大飢饉

天保四年、同七年 (1833、1836) 天保年間には二度にわたる飢饉があり、特に七年は最も甚だしかった。〇その年は初夏になっても気温が上がらず、稲の育ちも遅れ気味でした。金次郎は宇都宮にでかけて農家で出されたナスが秋ナスの味がすることに気付き、冷害を予測し、村に帰って各家の畑に一反はヒエを植えるよう指示し、荒地や空き地を耕して豆を栽培するよう指導し、各地において凶作のために飢え死にが起ったにもかかわらず、桜町でも青木村でも食べる物には困りませんでした。十二月、桜町支配下四千石の村に、各家で所持する米麦雑穀の所持する俵数を調査し、各家五俵を蓄えそれ以上の物は売るよう指導した。「今の穀価は最高であり、もう二度とこんなことはない。今こそ売時だ。売って金にしなさい。金が不要の場合は相当の利息で預かります。今売り出すは、来年施す功徳が多い。何処へでも売りなさい。五俵に満たない者、貯えない者の分はこちらで備えて置くので心配ない」と指導した。各戸の余分は売り出させ、不足分は郷蔵に積み圍(かこ)い、余った分は順次蔵を開いて烏山領及び他の領、村へ出して救助しました。この年、駿州駿東郡は、凶荒が殊に甚だしく領主小田原侯がこの救助を尊徳翁に命じました。尊徳は即刻出発し、夜行して小田原に到着し、米金を請求しましたが、家老年寄は結論を出せず、正午になって、食事を先にした。尊徳は「平常の事と違い、数万の民の命に関わる重大事です。まずこの件を決してから昼食にするべきです。決せられなければ夜になっても食べてはなりません」と言うと、「その通り」ということになり、議決し、速やかに用米の蔵を開くよう倉奉行に通達しました。これはみな、尊徳翁の至誠によるものです。この年初めて大島勇助を弟子としました。その後、幾人もの弟子を抱えました。大久保忠真の親戚にあたる谷田部潘(茨城県つくば市谷田部)の四十二の村、茂木(もてぎ)の二十七の村の復興を依頼され、烏山潘(栃木県那須烏山市)も援助と立て直しを求めてきました。
天保八年(1837) 大久保忠真が江戸の屋敷で亡くなりました。藩士達が領内の立て直しに協力しなくなり、金次郎は小田原領内の72の村の立て直しを独力で成し遂げ、桜町に戻って行きました。
天保十年(1839) 伊豆地方で、韮山村多田弥次右衛門という者のために、江川太郎左衛門の紹介によって尊徳を招いて、多田家の回復の方策の方策を講じたことに基因します。それ以来、村民を導き助けて報徳を実行させた。(駿河地方にあっては、庵原郡庵原村の柴田順作という者が、家政回復のため天保年間に二宮尊徳の教義を学び、一家を復興し、後に安政三年(1856)に同村尾羽に牧田包栄のために一社(報徳社)を興しました。
天保十二年(1841) 老中水野忠邦による天保の改革が開始され、その政策の一つに印旛沼の開発があった。金次郎は水野忠邦に認められて、印旛沼開発事業計画書の作成を命ぜられ、それによって幕臣に登用され、御普請役格となった。そして、この頃から金次郎は諱を尊徳と名乗るようになった。
天保十三年(1842) 56歳、老中水野忠邦によって、幕府の役人に取り立てられる。「二宮尊徳」という名を届け出た。利根川の分水路造りや、印旛沼の開発を命じられる。

「自然に適うただ一つの出来る道をとり、それに従うならば出来るでしょう。しかし、人の本性は概ねその道に従うことを厭うから、その場合は出来ないでしょう。私は運河を掘る地域の民の堕落ぶりを知っています。まず『仁術』によってその精神を正さなくてはなりません。それが仕事に着手する前の用意として、最初に必要な処置であります。」「この事業は金と力のいずれを用いても、ほとんど期待できる性格ではありません。強い報恩の念により動かされ、心を合せた人々にしてはじめて可能なものです。それゆえ、当面は、『仁術』を用いて、やもめを慰め、みなし児を保護し、今の道徳なき民を道徳的な民に変えることが必要であります。たとえ廻り道のようにみえても、それが最短にしてもっとも効果的な道であります。最初に道徳があり、事業はその後にあるのであります」

この大工事を26年かかると見込む尊徳に対し、水野忠邦が失脚した後の幕府に受け入れられず、中途半端に終ってしまい、二十万両もの大金が無駄となってしまいました。この後、日光領89の村の再建を目指しました。 

*安居院庄七は二宮先生が下野の物井村にあって報徳の仕法を行い、無利息金を貸付されると聞いて、これを借り相場の資本にしようと考え、物井村に行った。この時、二宮先生は物井村の陣屋にあって、門人数十人を集めて教授されていて、誰でもそこで教えを受ける事が自由だった。そこで庄七は同所の東長屋にいておよそ25・6日間働きながら障子越しに先生の門人に語られることを聞いて、自ら深く悟り小田原にかえった。これより専ら元手商を営んだ。元手商とは問屋から仕入れた価格で小売りを行うことをいう。報徳の信条のひとつである。

元値商とは (庄七の元値商は玄米一俵の仕入れ原価を白米として同一値段で売る。一般の商業経営論からは商売になるはずがない。ただ空の俵、糠、こぼれ米が純益となる。ところが升目も正しく値段も安いとあって、人々が遠くから聞き知って買いに来る。暮に勘定すると十両の利益がでた。)
弘化三年(1846) ◎相馬仕法の実施
中村侯相馬藩は一時非常に苛酷な年貢を納めさせたことから、住民は次第に衰貧に陥り、死亡離散がひどく、田畑は荒れ果て、収納は三分の二に減じ、上下とも窮乏が甚だしくなり、尊徳の功績を聞き、復興の教えを願った。
尊徳は、
 ・相馬家の過去180年間の収納額を精査して潘の分度を定め、
 ・為政鑑三巻を藩侯に提出し、同家のため復興に全力をあげて努力し、専ら人民を大事にする道を施し、善を賞し不善を改めさせた。
 ・無利息金貸付の方法を行い、衰貧を挙げ、勧業永安の道をもって導き、相馬仕法を実施、
 ・十数年で領内の旧来の怠惰な風俗が一変し、人心は農業に勤めるようになり、廃地も開け、村里の面目を一新し、興復の効果を収めました。

日光地域の荒廃村を再興する計画を立てている間に、その門弟達に次のように述べました。
「一村を救いうる方法は全国を救いうる。その原理は同じである。」
「当面の一つの仕事に全力をつくすがよい。それがいずれ、全国を救うのに役立ちうるからである」
弘化三年(1846) 60歳、尊徳の農村の立て直しの仕方が気に入らない小田原藩は、藩内での尊徳の指導を禁止する。藩内に尊徳が入ることも、農民が尊徳に会いに行くことも禁止する。
弘化四年(1847) 神谷與平治、下石田報徳社を設立。同志十三名は「勧行義定連印帳」に記名調印した。遠州報徳はここから遠州全域へと広まっていった。
嘉永元年(1848)頃 安居院庄七は大和に至って、河内国の人、杉澤作兵衛という者が発起した伊勢・八幡・春日の三社の太々万人講の企てに賛成し、講員の募集のため、遠江国に来て浜松に身を寄せた時に、長上郡下石田村の神谷與平治に太々万人講を勧めて、あわせて報徳の道を説きました。神谷與平治は報徳の教えを素晴らしい教えだと感動し、佐野郡倉真村の岡田佐平治、周智郡森町の新村豊作[山中里助]等とともに金267両を募って万人講の募集に応じました。これ以来、遠江の各地に報徳社を結成した者が多く、皆、庄七を招いてその教義を受け、そして一村一家の救済を計画するに至りました。
嘉永五年(1852) 66歳、小田原藩に入ることが許される。
嘉永六年(1853) 67歳、幕府から日光地域の立て直しを命じられる。その後、病気になる。
八月 安居院庄七は遠州七人衆を率いて日光で二宮尊徳と面会し、遠州の報徳が公認された。(駿河・遠江の報徳結社の来歴を述べました。尊徳はこれを喜んで、ねんごろに教訓し、ますます社運の隆盛を企画するようにと言いました。その後報徳の教えを受けるもの六十余村の多きに至って、報徳社を結んで報徳の教えを駿河・遠江の両地に普及しました)
遠州七人衆:岡田佐平治、新村豊作、中村常蔵、神谷久太郎、内田啓介 、竹田兵左衛門、松井藤太夫7
安政三年(1856) 70歳、日光地域の立て直しの指導中、10月20日、今の栃木県今市市で、病気のため亡くなる。

 

 金次郎は生涯に、関東を中心に六百余カ村という厖大な村の復興を手がけ、何千町歩、何万町歩という田畑を開発し、またその過程で多額の報徳金と称する資金を蓄積した。もし金次郎が、これらの資産を自分のものにしていたら、大資産家、大財閥になっていたはずである。しかし、金次郎が死去したとき、金次郎所有の田畑は一坪もなく、また膨大な資金もすべて報徳金として農村復興に投入され、私有財産としてはまったく残っていなかった。すなわち金次郎は自分の生涯を、農村のためにすべて捧げつくしたのである。資産を自分のものとしてではなく、世の中に蓄積したのである。これこそ金次郎の教訓『推譲』の、大推譲といわねばならぬ。その農民への仁愛と、無私の精神には、キリストの人生を髣髴させるものがある。金次郎の教えが永遠の輝きを放つ所以である。

金次郎の事業は長男の彌太郎によって受けつがれ、また金次郎の報徳思想は、その弟子である岡田良一郎の手によって、掛川市の大日本報徳社を中心にして全国的に展開され、今日に至っている。


報徳社が各地に設立され、後に大日本報徳社となる

  • 明治八年(1875)遠江国報徳社設立。岡田佐平治が社長となる。
  • 明治十年(1878)駿河東報徳社設立。片岡信明が社長となる。
  • 明治三十九年(1906)半官半民の報徳会設立。大正元年に中央報徳会と改称。
  • 明治四十四年(1911)遠江国報徳社が大日本報徳社と改称。
  • 大正元年(1912)岡田良一郎が大日本報徳社社長を退き、長男の良平が社長就任
  • 大正十三年(1924)四月に、全国の報徳社が大合同し、大日本報徳社を本社とする。

  • 報徳は至誠・勤労・分度・推譲を実践し道徳と経済が調和する道

     主として社会救済の念を起こし、修身・斉家・治国・安民の根本の意義を考え、上は政治の方法の 得失をより下は個人の修養に至るまで、空理空論を排除し、実理実行、専ら「徳をもって徳に報いる」 道を起こしました。至誠・勤労・分度・推譲の四つを説いて、道徳と経済が調和し、並び行われるよう に図り、人を導き世を益そうとしたものです。尊徳は神道・儒道・仏道の三道を咀嚼してこれを実地に 活用するために、報徳の教えを唱えたのです。


    報徳の方法には興国安民法(行政式)と報徳結社法(民間式)がある

    興国安民の方法は幕府及び諸侯のため心をくだいて非常な苦労を重ねて経営した国を治める要道であり、上より下に及ぼすものです。当時は報徳役所というものを設け、報徳の事業を施したところが少なくありません。この方法は命令的に行うものですから、効果を見ることは迅速です。この方法は善い方法ですが、治者に人物を得ない時はたちまち廃絶して永続できません。それだけでなく時勢の変遷によって現在では行うことが難しくなっています。これがこの方法が現在廃絶した理由です。

    報徳結社の方法は身を修め家庭を整える方法を説き、専ら個人を指導し、報徳社の団結の力によって相互の福利社会の利益を増進する方法です。下館藩士のため信友講を設け、また嘉永三年(1850)に相模国片岡村の同志が克譲社を創設したことがあり、これが報徳に講名及び社名を付した初めです。当時は講といい社といい、その名称を異にしていますが、要するに結社方法の初めであって、団結の力により報徳の教義を深く調べ、その本質を究明実践し、一身一家一村の福祉を増進しようとするものです。この方法は個人相互の結合により設立するもので、興国安民の方法に比べ遅々としていますが、廃絶のおそれが少なく、社会の進歩に伴い、ますます発展する傾向があります。現在各地に設立する報徳社団は皆この系統に属するもので、専ら個人の福利増進と社会の公益を図っています。

    〇勤労と推譲が人道の善、分度は自らの生計に限度を設け推譲するために定める

    尊徳は勤労と推譲を人道における善とし、これを徳行の原則とします。尊徳はこの人道論を主張するために経済論をたくみに縦糸と横糸としたのです。その道徳と経済とを互いに関連させる方法は、すでに各人の勤労を道徳の原則とするために、この勤労で生産したもので生計を行い、その自己の生計には一定の限度を置いて、この限度以外のものを準備し、また生産の元資に供し、さらに他人に譲渡します。これを分度・推譲と名付けます。分度とは、自己の所得と自己の消費とに対して限度を加え、生産的でない費用を制限し生産的資本の充実をはかるために定めるものです。

    日本の各地にあって、あちこちに、尊徳の名と教えとにより結ばれた農民団体(報徳社)がみられ、無気力な労働者に対し尊徳の教えた精神を永遠に伝えているのであります。
    (特に日露戦争後は政府の支援を受け、大正十三年(1924)には大日本報徳社が設立された。)

    推譲について (二宮翁夜話より)

    私は人に教えることは、「百石の者は五十石、千石の者は五百石、すべてその半分に生活をたて、その半分を譲りなさいと教えている。分限(ぎりぎりの範囲)の半分は各々異なっているため、各々の分限の中(はんぶん)を採れと教えているのである。そうすれば各々の半分は明確になる。

    私の教是(よいと認めた方針)は推譲の道と言う。これは人道(人の人たる道)の最上のものである。「中なれば正」といえるのである。この推譲には次第(由来、いきさつ)があり、今年の物を来年に譲ることも譲るであり、貯蓄のことである。子孫に譲るも譲るであり、家産増殖のことである。その他親戚にも朋友にも譲らなければならない。村里、国家にも譲らなければならない。資産ある者は確固と分度を定め、法(のり:標準として守るべき事柄)を立てよく譲らなければならない。

    *分度:(分限度合の意)二宮尊徳の創始した報徳仕法で、自己の社会的・経済的実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。(広辞苑)

    分度について  二宮翁夜話より(p、89)

    人々の身代も同じで、分限の外に入った物を、分内に入れないで、別に貯えておけば、臨時の支出や不慮の支出などに差し支えがなくなる。また売買の道も、分外の利益を分外として分内に入れなければ、分外の損失はない。分外の損というのは、分外の利益を分内に入れるからでであり、私の道は分度を定めることを大本とするのはこのためである。分度を一度決めると、譲施の徳功は自然にできるものである。結構に仰せつけられたことは有難いという一言、生涯忘れないよう祈っています。

    尊徳仕法による復興

    1)徹底した現状調査・把握
    2)分度を定め、推譲を勧め、怠惰を戒め、浪費を抑え、農耕の勤労を勧める教育
    3)困窮者に対しては、無利息貸付によって経済を安定させ、報徳日課積金の実施推進
    4)環境整備:荒地の開墾し、作業環境整備(水路・農道・橋の修復)を実施
    5)領主に対しても、年貢の適正化(減納等)を要望し受け入れていただく。
    6)適正な褒賞の実施

     


    参考文献

    二宮金次郎子どもの伝記⑱木暮正夫文ポプラ社
    代表的日本人内村鑑三著鈴木範久訳ワイド版岩波文庫(164)
    二宮翁夜話福住正兄筆記佐々井信太郎校訂岩波文庫
    二宮金次郎と13人の世界人三戸岡道夫編栄光出版社
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