江戸時代後期、1780年から1880年代、地球は小氷期に入り寒冷期の第3ピークを迎えます。1707年宝永地震、1854年安政地震、各地の大雨、相次ぐ川の氾濫、冷害と人々は天明・天保の大飢饉に遭遇します。

相模国(現小田原市)かやま栢山村の百姓の家に生まれた二宮金次郎(後に尊徳)は、幼い頃両親を失くし又酒匂川の氾濫で家・田畑をも流されてしまいます。幕藩体制解体期にあって商品貨幣経済が経済格差を助長し、農民や領主をそれぞれ疲弊させていく時代、自らの体験と儒書勉学と地道な勤労によって自家再建と社会の復興を目指します。その実践手法を報徳仕法といい、根源となる理念を報徳思想といいます。以下金次郎の事跡をたどります。

 

1787(天明7)年 二宮金次郎誕生、相模国(現小田原市)栢山村
       ※ 天明の大飢饉、各地米騒動
1791(寛政3)年 酒匂川氾濫、二宮家田畑流出
1800(寛政12)年 父利右衛門死去、金次郎14歳
1802(享和2)年 母好死去、金次郎16歳
酒匂川氾濫、二宮家田畑残らず流出
1803(享和3)年 他家の捨て苗を植え米一俵の収穫 積小以大
1810(文化7)年 家屋再建、自家再興なる
       ※ 米相場で財政立て直しの資金を得る。倹約勤労を通じて余剰を他者の為に推譲
1811(文化8)年 小田原城下、武家奉公に出る。儒教関係の書物を購入
1812(文化9)年 小田原藩服部家奉公。二宮林蔵を名のる
1814(文化11)年 服部家奉公人達と五常講組織
       ※ 服部家の使用人達が儒教の五常の倫理(「仁義礼智信」)を守って勤勉・倹約を励行し、その余剰金を蓄え互いに融通し合う。
         後の報徳社のモデルとなる。
1817(文化14)年 服部家家政再建の依頼
       ※ 服部家家政再建仕法着手、収入に応じた支出限度を設ける。分度の概念
       ※ 武家借財整理の目的救民安国
1818(文政元)年 小田原藩主大久保忠真より耕作出精の模範的人物として表彰される。
1820(文政3)年 小田原藩の貢納入枡改正、藩士・農民の救済にあたる。
       ※ 藩士救済策:低利融資、無利息融資 農民救済策:無年貢地化=後の報徳田地
1823(文政6)年 二宮家田畑・家財を整理、下野国桜町領復興の為転居
1824(文政7)年 借財返済の為の相互扶助的な金融組織、頼母子講を組織
1826(文政9)年 桜町陣屋の現地責任者となる。
1828(文政11)年 藩官僚の論理と金次郎の復興仕法に齟齬
役儀御免の願書、小田原藩に提出
       ※ 領主と金次郎の仕法の相異
       ※ 幕府諸藩の領主の目的:年貢増収による藩財政立て直し
       ※ 金次郎の目的:領民勤労の成果は領民に還元、生活の安定を「村々の衰弊し、復興困難の根因は政道の理念をわきまえない            役人の不正」 不二孝創始者小谷三志と交流、報徳仕法の広範な展開を支えた不二孝ネットワーク
1829(文政12)年 陣屋を出立、成田山参籠。不動心の悟り一円観を得る。
       ※ 一円観:仕法の指導原理、「自分は正、相手は非、という考えを脱し我を捨て温和な心で接すれば、反発されることは無い。」
1831(天保2)年 日光にて藩主大久保忠真に謁見、忠真の言葉「金次郎の方法は論語にある『徳を以って徳に報いる』もの」
1832(天保3)年 金次郎の記録に「報徳」の語が登場
       ※ 天保3年から天保9年天保の大飢饉
          無利息報徳金融の創設:村の相互扶助的機能を回復、村外からの高利貸し資本の蚕食を防ぐ
       ※ 報徳金の無利息貸与、返済後、自発的な推譲として「報徳冥加金」を出させる。
1833(天保4)年 この年と天保7年、大凶作、大飢饉、この頃領主・農民・商人達から仕法の依頼相次ぐ
       ※ 文政から嘉永年間30ヶ所の仕法導入、その内天保年間19か所
1837(天保8)年 小田原藩、仕法実施        大阪、大塩平八郎の乱
1838(天保9)年 日掛縄索法、小田原藩で実施
1841(天保12)年 小田原藩、金次郎仕法から離脱   老中水野忠邦、天保の改革開始
1842(天保13)年 幕府の御普請役格となるも、幕府勘定所や諸藩は仕法に消極的
安居院庄七、桜町陣屋訪問
       ※ 安居院庄七は万人講勧誘、農事改良や社会事業を指導
1843(天保14)年 二宮尊徳と改名
小田原報徳社結成
1845(弘化2)年 陸奥国中村藩仕法導入(仕法の成功例)
1846(弘化3)年 国家政策の建議(興国安民実現の方法論、報徳仕法の体系)幕府に提出
小田原藩、報徳仕法の撤廃。金次郎と領民の接触を禁止
1847(弘化4)年 神谷与平治、安居院庄七の指導で遠江国長上郡下石田村に「報徳連中」結成
       ※ 遠州報徳運動の発端
1848(嘉永元)年 岡田佐平治、安居院庄七の指導で遠江国佐野郡倉真村に「報徳連中」結成
1853(嘉永6)年 日光神領復興の命下る
遠州報徳連中7名と安居院、日光神領滞在中の尊徳に会う
       ※ ペリー、浦賀に来航
1854(安政元)年 倅弥太郎、父尊徳に代わり御普請役格に昇進
岡田良一郎入門
       ※ 東海・南海地震(1855年、安政の江戸地震)
1856(安政3)年 尊徳、御普請役格から御普請役に昇進
10月20日死去(70歳)

補注
「分度」  自己の収入に対して支出の定額を決めること
「推譲」  「分度」により生まれた余剰を自己、子孫、村、国の為に譲ること

 

金次郎の求めたものは「仁政」
「仁政」とは、領主が、年貢を納める領民の生活を安定させ、互いに助け合う豊かな社会を実現させる為の政治の理念です。飢饉や凶作の時には領主や村の富裕者も困窮した領民を救済します。

江戸時代の後期、貨幣経済の浸透は借財として藩の財政や領民の家政を圧迫し、天明・天保と度重なる大飢饉で藩も村々も疲弊していきました。また、18世紀中頃から19世紀後半は米価が低迷し、農民は他の生業(小商いや職人)へと移行、離村も加速と米価変動は疲弊に大きな影響を与えたとの指摘があります。金次郎自身も自家再興の資金に金融経済を学び、米相場を利用しています。

報徳仕法は、無利息報徳金融、無年貢田地、自発的な推譲による報徳冥加金としての資金蓄積、藩内・村内の相互扶助・助け合い、又荒廃地開発事業に困窮者を雇って賃金を与えるなど、具体的な再建の道を示しました。
その根底には常に他者への救済という尊徳の強い思いがありました。勤労・倹約を生業の基本としながらも単なる精神論ではなく実利・実践を説くものでした。

1853年ペリー来航を始め諸外国からの圧力も加わり、諸藩の財政は益々逼迫していきます。復興の手腕を見込まれた尊徳は幕臣となって、報徳仕法を興国安民実現の方法論として献策しますが、幕府・藩主側は消極的になり次第に仕法は打ち切りとなりました。

その後報徳仕法は自力復興の報徳運動として、民間結社の形で存続していきます。明治維新、長期に渡る戦争や経済不況と時代の趨勢に様々な形態を取りながら、今も「報徳社」として活動を続けています。

 


参考文献
「二宮尊徳」大藤 修著 吉川弘文館2015
「報徳運動と近代地域社会」足立 洋一郎著 御茶の水書房2014
「報徳仕法と近世社会」早田 旅人著 東京堂出版2014
「近代西相模の報徳運動」早田 旅人著 夢工房2013
「遠州報徳の夜明け」西遠連合報徳社 2015