銅版画は詳細な図像表現の可能な宣伝広告の手段として明治10年代から30年代にかけて各地で制作された。石版印刷、さらに写真印刷の普及によって衰退した。

長上郡 天王村 竹山勝平
敷地、長上、浜名 三郡下 の 地主ベスト23 の9位
21町9反1畝9歩
竹山勝平妻「とは」有玉高林維平二女大正元年8月4日没61歳と書かれている。

この「とは」は、竹山謙三の親の決めたいいなずけだったが、謙三が拒否したという話が残っている。

長上郡 蒲村下 伊藤豊太郎
蚕種製造
三遠農学社に入り、村に報徳社を創め、養蚕の私立伝習所を開く。

敷知郡 浜松肴町 間淵亀太郎
酒類醸造(間淵屋)
山葉風琴製造所を地元の豪商として支援した。
取締役として明治30年~40年経営に参加した。
他にも、浜松委託販売会社副社長、浜松信用組合取締役、浜松宿26ヶ町村連合会議員(明治22年)を務めた。

敷知郡 浜松町 田町 笠井屋 小野江善八
三河国八名郡田中新田村松坂家より浜松小野江家の養子となる。
小野江善六の本家呉服商笠井屋の主人。

報徳商人といわれる豪商が、堅実な商いを行い、地域で信用力を高め、職人の企業化を支援した。
鉄道、電気などのインフラ産業にも共同出資している。

報徳商人
「商人は質素倹約を旨として、世の為に成ることに金を使うことが大切である」
「元値売り」「売って喜び、買って喜ぶ」
「お客様を大切にすれば商売繁盛」をモットーに
「此方報徳に付諸品改安売り、現金掛値なし」の張り紙を下げ商いを行った。

報徳を信奉した商人は小野江善六(屋号絞屋)を中心に、河合源左衛門、中村藤吉(田町小物商棒屋)、川合善助、小池与平(田町、柳・竹合利販売・石麿屋)、福村藤太郎、小西甚三郎、安川儀兵衛(田町、油商・近江屋)田中五郎兵衛(田町、金物商、鍋屋)などであった。

 

敷知郡 神久呂村 大久保 馬淵金吾
大人見村区長、静岡県議会議員
遠州紡績会社、帝国製帽株式会社、日本形染株式会社、第28国立銀行、浜松委託会社の企業に関わる。
妻は竹山家から嫁いでいる。

江戸時代も後半になって商品貨幣経済が発展すると、米を基礎に置いた藩幕体制は経済的に破綻する。
江戸期から明治初年にかけての農村には町の両替商のような金融業者は存在しなかった。
小口の金融は頼母子講・無尽講などでまかなえたが、大口の借金になると、豪農、地主など、村の金持ちに頼った。

①豪農は、江戸時代、大庄屋・庄屋・名主・年寄といった立場であった。
明治政府になっても、区長・戸長・郡長などの公職に就くものが多かった。
②豪農・豪商は、地域の中で生活し家業を営んでいるため、地域全体が発展しなくては存在できなかった。

 


 

豊田郡 北庄内村 曽許乃御立(そこのみたち)神社
呉松村鹿島神社
明治18年11月4日 西遠農学舎が農談会を開催。出席者200余名。
松島吉平の救済策などの演説。

明治27年4月 和地・堀江・白洲の三結報徳社によって記念碑建立。

豊田郡 豊西村 松島吉平
はじめ吉平、のちに十湖と改名。
19歳のころ、福山田喜助に報徳の教えを学ぶ。
24歳のとき、三才報徳社(遠譲社中善地支部と改名)を組織した。

明治14年7月引佐麁玉郡長に就任。任期5年、明治19年8月引退。
在任中、松島授三郎の西遠農学社のために尽力し、引佐郡下の報徳思想普及に努めた。

天竜川についてもさぎさか匂坂村との間に渡船の開通を提唱し、明治16年、豊田橋として実現する。現在でも十湖橋、十湖池と地名が残っている。

金原明善とは意見を異にすることが多かったが、後年(大正3年3月)鳥羽の源長院で和解する。

俳人としても知られている十湖だが、俳諧の道は政治運動を離れてからいそしみ、全国かの門人からあがめられた。

 

豊田郡 豊西村 豊田橋                  豊田郡 豊西村 豊田尋常小学校 及び 村役場


 


参考文献

・浜松市史 新編資料編 二 別冊  4、銅版画に見る明治の浜松
・浜松市史 三 第二節 報徳運動の推移
・明治期商家銅版画資料に関する歴史情報学的研究 研究代表者 三重大学大学院工学研究科教授 菅原洋一
・遠州報徳の夜明け 一般社団法人声援連合報徳社